ヒントは、自分の殻の外にあるかもしれません
違いに気づく、自分に出会う
ヤマトナデシコ奮闘記
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日本の風物詩、リクルートスーツ姿の学生達をキャンパス内で見かけることが多くなった。黒のスーツと白いシャツに身を包み、黒いかばんに、黒い靴。究極なまでの没個性的な姿で歩いている。そして、そんな光景にものすごく違和感を感じてしまう自分。
スーツが体に馴染んでいないのは、まるで中学校に入学したばかりの新一年生のようなぎこちなさ。それはそれで、初々しいともいえなくはないけれど、中学生・高校生だって、数ヶ月もすればカバンの飾り方に個性が出てくるし、制服だって、靴下やスカート丈の微妙な長さとか、リボンの結び目の工夫とか、髪型とか、制約の中でも一生懸命に個性を出そうと工夫する。なのに、そういう成長過程をつい最近まで経てきたはずの学生達が、しかも、普段は思い思いのファッションでキャンパス内を生き生きと闊歩している彼らが、なんの華やかなワンポイントもない白黒の服装で、長い髪をとってつけたように飾り気無くゴムで後ろに束ねて、まるで「周りに合わせなきゃ」「個性を隠さなきゃ」という強迫観念にとらわれたような虚ろさで、ぞろぞろと歩いている。何かがおかしいよなー。
このところ、そんな就職活動を始めたばかりの学生達の相談にのる機会が続いている。彼らの悩みを聞いていると、色んな事柄がごっちゃになって整理されてないのだけれど、共通しているのは、【目的と手段】、【自立と依存】の区別が分かっていないことかな。
ふるさとの東京に戻って、5ヶ月が経った。「どう? もう日本の生活には馴染めた?」と聞かれるたび、その場に合わせて当たり障りなく答えてはいるものの、正直なところ、なんと答えてよいのか戸惑いを感じてもいる。
海外生活の長い人が日本に戻ると、逆カルチャーショックというのを感じることがあると言われる。よく知っている自分の古巣のはずなのに、そこでの習慣や価値観に再び馴染むことができない、という現象。
【馴染んでいる】という状態を、日本社会の価値観を自分のものとして取り入れて、社会の価値観にストレスを感じることなく合わせられるようになっているか、ということだと解釈するならば、私の答えは、「馴染んでいない」けれど「ストレスは感じていない」になる。あれ?普通は、環境に馴染めなかったら、相当なストレスのはず。
大学院入学が決定したのは去年の秋のこと。私にとってそれは、日本の新学期に合わせて、遅くとも翌3月には日本に帰国しなければならないことを意味していた。
私の務める香港企業では、日本市場担当というのは社内でも特殊な部署だと位置づけられていた。日本語の難しさや日本の商習慣の特殊性、そして日本人の「こだわり」というのが、インターナショナルな香港人でさえ理解しにくいからだ。英語ができれば世界と取引できるかもしれないけれど、日本語が出来ても日本人との取引がうまく出来るとは限らない。そのため、現実問題として、そういうニーズに見合う人材の募集やトレーニングには時間がかかる。香港では一般的に、退職届は1ヶ月前に会社に提出すればよいことになっているものの、仕事の引継ぎで会社や取引先に迷惑をかけたくなかったので、私は半年前から上司に相談していた。
それに対して上司からの提案は、日本を拠点にしていてもいいから、私にそのまま続投するように、というもの。日本に戻ってからの転職先やアルバイト先を探す手間が省けるし、なにより安定収入も確保できるので、私も最初はありがたい話だと考えていた。でも正直、迷いもあった。ただでさえ忙しい業務内容なのに、大学院との両立が出来るだろうか。中途半端な仕事振りでは、香港の同僚にも、客先にも迷惑をかけてしまうだろう。
そんな迷いを抱えていたある日のこと。シンガポールの親友、Z嬢と久しぶりに思いっきりおしゃべりしたくなって、香港から会いに出かけることにした。
今から1年以上前のこと。ある日、私の営業チームにFさんというスタッフが加わった。彼は大陸出身のエンジニアで、香港に移民として移ってきたばかりだった。文系出身の私がメーカーでの営業をするにあたって、どうしても技術的な内容を扱うには限界がある。そこで、日本語が流暢な技術系の彼が私の補佐をしてくれることになったのだった。
さて、Fさんはとてもとても善い人だった。いつも穏やかで、やさしく、決して怒らず、仕事振りは几帳面で、人にも物にも状況にも気配りができて、情に厚くて、はにかむ笑顔が純朴で、礼儀正しくて・・・。人間的にとっても尊敬できる人で、私は彼のそういう人格が大好きだ。
でも・・・それが、仕事上で仇になることとなる。Fさん、怒れないのだ。
「KY(空気が読めない)」っていう日本語が流行ってだいぶ経つ。これが流行りだしてから特に、日本人はこの言葉に過敏に反応して、以前にも増してお互いに牽制しあっているような気がする。
空気が読めないっていう言葉の定義としては、暗黙の了解といわれていることを知らないとか、背景事情に疎いから、適切でない発言や行動をとってしまうこと、そして、その結果、気まずい雰囲気を作り上げていることに本人が気がついていないこと、・・・なんだろうけれど。日本に戻ってくるたび、なんだか私はこの「場を支配する空気」なるものが、ますます読みづらくなっているような気がしている。